2012年6月1日金曜日

淡窓詩話(1)

淡窓詩話」は、広瀬淡窓が門下生の問いに答えて、詩の本質、作詩の方法や心得、詩の味わい方などについて語ったものを、養子、広瀬青邨が明治初年に編集したものです。
原文は、カナまじり文ですが、ここでは、すべて平仮名表記にしました。

【作者小伝】
広瀬淡窓(ひろせ-たんそう)(1782-1856) 江戸後期の儒者・漢詩人・教育家。豊後国日田の人。名は簡、のち建。字は廉卿、のち子基。淡窓と号す。1817年豊後日田郡堀田村に私塾、咸宜園(かんぎえん)を開き、敬天を旨とする教育を行う。門下に高野長英・大村益次郎・長三洲等を輩出す。安政3年(1856)歿、75才。

淡 窓 詩 話 上巻

淡窓廣瀬先生著
男 範世叔校


○長允文問 詩を學ぶには、諸體何れを先に學び、何れを後にすべきや。

詩を學ぶの前後、童子無學の輩は、先絶句を學び、次に律詩、次に古詩なるべし。若し學力既に備りて、而後に詩を學ぶ者は、古詩より入って律絶に及ぼすべし。古詩を先にし律絶を後にするは、本より末に及ぶことなれば順なり。律絶を先にし古詩を後にするは、末より本に及ぶことなれば逆なり。事は順に如くはなし。然れども古詩は學力なければ、作ること能はず。故に止むことを得ずして律絶を先にす。亦所謂倒行逆施なり。

我邦の人、詩を學ぶには、律絶を先にして古體を後にし、書を學ぶには、行草を先にして楷隷を後にす。是れ其志速に成るを求むるに在つて、遠大の慮なし。漢人に及ばざる所以なり。

古詩を學ぶには、五古を先にすべし。七古は才力富健なるに非れば、作ること能はず。若し七古を學ばば、初めより長篇を作るは惡し。先十二句十六句二十句迄の處を作り、能く其意味を得たる上にて、長篇を作るべし。才力なくして作りたる長篇は、散緩冗弱にして、運動の勢なし。蛇の胴中に疵を受けたるが如し。誠に厭ふべきの至りなり。五古の長篇も、大略之に準ずべし。

當今三都に於て流行する體、七絶より盛なるはなし。是れ貴人又は豪富の町人を、其社中に引入れんが爲めの計策なり。如レ此の輩、纔に素讀を爲したる位の事にて、詩人とならんと欲す。故に絶句を外にしては、力を用ふべき處なし。盟主たる者、其情を知りたる故に、詩の妙は絶句にありと稱し、古今の詩集を抄録するにも、七絶のみを取りて世に行ふ。但相手の多くして、其書の行はれ易からんことを冀ふなり。詩趣鄙陋なりと謂ふべし。

諸體何れも其妙處に至ることは難し。試に童蒙初學の爲めに、入處の難易を序では、絶句五律を易しとし、五古七律を中とし、七古徘律を難しとすべし。

(2)へ続く