2012年6月22日金曜日

淡窓詩話(20)

〇青木益問 當今の詩人、我門より盛なるはなし。宜園百家詩抄の如き、世の傳誦する所なり。皆先生教導の宜しきに因れり。小子輩幸に函丈に侍す。願はくは先生の詩訣を得ん。


門下詩人の多きこと、是予が詩を好むを見て、之に倣ふなり。予强て之を勸めしに非ず。亦秘訣ありて之に傳へしにも非ず。今且予が詩を好む所以を談ずべし。經に「君子無故琴瑟不側」と云ふことあり。先儒其事を論じて曰はく、「今時の儒生、琴瑟を學ぶに暇なし。之を學びたりとも、和漢聲音の道同じからず。古人の琴瑟を玩びし程には、心に切ならず。故に古詩を諷詠して心を慰め、琴瑟に當つるに如くはなし」と。予少きより、深く此說を信ず。平生多病にして、心思鬱悶すること多し。此の如き時は、必ず古詩を諷詠して思を遺るなり。心思憂苦する時は、古人の思を神仙に寓し、想を雲霞に寄するの作を詠して、心中の鬱滯を盪滌す。志氣混沈し振ふこと能はざれば、古人の雌壯豪邁、「乘長風萬里浪」の氣象あるものを詠して、以て之を鼓動す。忿怒不平の事あれば、安平樂易の作を取つて之を誦し、散亂煩躁する時は、幽間沈靜の篇を取つて之を玩味す。此の如くにして鬱を散じ悶を消じ、玩味すること逾〻深ければ、欣然とし受て食僂を忘れ、妄りに思へらく、聖人の虞韶を聞きて肉味を忘れ玉ひしも、此の如くならんかと。叉固より諳記する所多ければ、卷を開き眼を勞するに及ばず。是の如きこと四五十年、只是れ詩を以て一箇の琴瑟に當つる者なり。然れども誦詠の久しき、身も亦之に倣はんことを欲し、遂に亦結構する所あり。故に予は古詩を誦することを好む。自ら詩を作ることは、必しも好まず。是其平生の作る所、甚だ多からざる所以なり。門人に至りては、皆力を詩に專にす。後世詩に巧ならんことを欲せば、多く作り、且推敲鍛錬するに如くはなし。若し必ず予が所爲に倣はんとならば、先古詩に熟練して、而して後ち詩を作る可きなり。