2012年7月2日月曜日

淡窓詩話(25)

【淡窓詩話(25)】は、淡窓詩話(24)の続きです。

◯ 中川玄佳問 詩を作るの要、何を以て先とすべきや。


今人の詩、務めて風流の態を寫す。綸巾を載き、竹杖を曳き、香を焚き茶を煎じ、世事を忘却して、悠然自得すること等、詩として之れ無きはなし。果して其通の境界にして、心も其處に安ずることならば、左様に數々言ふには及ぶまじ。是れ全く假高士僞雅人と謂ふ可し。古人己が富貴に誇りて、「老覺腰金重。慵便枕玉凉。」と作りしを、評者之を乞食の語なりと云へり。然らば今人綸巾竹杖は、眞に俗物の語と謂ふべきなり。予も閒情野趣を好めども、頗る今人の撰と異なり、拙集を見玉はヾ、自ら明かならん。

詩は實際を貴ぶこと、今人皆知れり。但今人好んで瑣細鄙猥の事を叙べて、之を實際と思へり。予が所謂實際とは然らず。ただ人々の實境實情を叙べて、矯飾なき所を指すなり。然るに今人丁壯の歳に在りて、好んで衰老の態を寫し、宦途に在りて、專ら山林の景を寫す。目の觸る﹅にも非ず。情の感ずるにも非ず。唯古人の語を模倣するのみ。如レ此ならば、假令其情景見るが如くに寫したりとも、優人の假裝を爲すが如し。豈實際と謂ふべけんや。

明を學ぶ者は、專ら贈答を事とし、題に人の名なき詩は、百に一もなし。古人之を嘲りて、「以詩爲恙無雁」と云へり。今時宋を學ぶ者は、專ら詠物を事とす。是亦詩を玩具と爲すなり。其弊や同じ。

三都の市中に住する者は、山を見るも水を見るも、容易に得がたし。田園邱壑の樂は、生涯得べからず。故に其詩も或は贈答を專にし、或は詠物を務む。是れ勢の免れざる所なり。我輩幸に田舎に住して、何事を言ふも勝手次第なり。何ぞ彼等が不自由なる境界を羨みて、其口角を摹することをせんや。

予嘗て曰、「詩無唐宋明清。而有巧拙雅俗。巧拙困用意之精粗。雅俗係著眼之高卑。」と、予が詩を論ずる。此外に在ることなし。故に詩を學ぶ者は、務めて其才識を養ふべし。才を養ふは、推敲鍛錬に在り。識を養ふは、古人の詩を熟讀するに在り。前に論述せしが如し。後世詩を讀む者、務めて古人の佳語を剽掠して己が有とせんとのみ思へり。明清輓近の詩を讀むには、其通の心得にても苦しからず。宋以前の詩を讀むには、初より其通の心得にては、益なし。只何となく熟讀して其風味を知るに如くはなし。漢魏の高古なる、六朝の清麗なる、唐人の溫にして膄なる、宋人の冷にして痩たる、其他太白が飄逸、子美が沈鬱、王、孟、韋、柳、が清微淡い遠の類、何れも能く味ひて其差別を知るべし。如レ此なれば古人の風神氣韻、自然と我心に移り、其語を出すこと高雅にして、俗趣に墮ちず。是れ見識を養ふの道なり。今の人詩を作るに急にして、詩を讀むに遑あらず。故に才餘りありても識足らず、古人に及ばざる所以なり。