2012年7月28日土曜日

淡窓詩話(32)

○孔井德問 世の文人、詩を作る者を賤すること甚し。經衡に志す者は、詩文共に浮華の具なりとして之を廢す。心學を談ずる者に至りては、經籍をも蔑棄して、之を故紙と稱す。其論愈出て愈高妙なり。如何折衷すべきや。


吾子論語を讀まずや。「子貢欲告朔之餼羊。子曰賜也爾愛其羊。我愛其禮。」と、夫れ餼羊は微乎たる一物なり。且其禮既に行はれざれば、誠に無用のものなり。然るに孔子之を惜み玉ふものは、羊あれは告朔の名存す。其名存すれば、其實も時節を以て擧げ行ふこともあらんとなり。道と云ふものは、聲色臭味あるに非ず。故に文字を借りて傳ふること、和漢共に同じ。特に或國は異國と制度萬端異なることなれば、其憑む處は書籍文字なり。然るに世儒云々するものは、未學の徒文字に汲々として、道の實を知らざるの弊を矯めんとするものなり。夫れ文字に滯りて道理を忘る﹅は、其人の天分下劣なる故なり。此の如き人、文字を弃て﹅道を求めたりとて、爭で精妙の地に到るべき、愈〻愚の境に墮つるなり。故に文字世に明なれば、其内に上等の人出來りて、道の本意を得ることあるべし。文字の道に關係すること、奚ぞ啻に餼羊のみならんや。詩文に至りては、是亦經籍を鼓吹するの具なり。要するに廢すべからず。昔し菅原の文時、終に臨んで天子に上書し、我國は後世に至りても、異國と通信の禮を廢し玉ふべからず。此事廢すれば、國俗文盲になるべしと云はれしとぞ、嗚呼哲人の慮遠きかな。果して後來其事廢せ しより、漢文を作る者は、女ぶみを作り、詩を作る者は、歌人となり、經書も讀者少くして、專ら念佛三昧となり、王室も隨て衰へたり。武家に至りては、儒學全く地を拂ひたれども、時々異國に通信の事あるにより、禪僧に命して辭令を司らしめたり。故に聖人の學も、禪家の手に於て綫の如くに傳はり、當代に至りて復興れり。老子は「知者不言」と稱したれども、己れは五千言に托して、道を後世に傳へたり。荘子も書を糟粕とすれども、己れ亦六萬言を著せり。今の心學を談ずる人も、其巨子たる者は、皆詩文に達したる人なり。後生謹んで群狙の朝三暮四に愚弄せらる﹅が如きことある勿れ。

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