2013年6月30日日曜日

江戸漢詩選〈2〉儒者―新井白石・荻生徂徠・古賀精里・山梨稲川

「江戸漢詩選〈2〉儒者―新井白石・荻生徂徠・古賀精里・山梨稲川」By 荻生徂徠, 一海知義, 池澤一郎。


江戸漢詩選 全5巻。
品切重版未定。古本での入手となります。
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【岩波書店の紹介文より】
江戸の後期には多くの文人が輩出した.文人の条件とは琴・詩・書・画をよくすることだと言われる.彼らはおのれの秀でた才能を恃みとし,個性と好みに忠実に生きようとした.しかしそれ故に世に冷遇され,彼らもまた俗世を白眼視した.その中でもとりわけ個性の秀でた四人の文人をとりあげ,痛快で抒情性に富んだ詩を,初めて注解する.


新井白石・荻生徂徠・古賀精里・山梨稲川の略伝



【新井白石 略伝(Wikipediaより)】
新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・学者。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に渡る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、有職読みで きんみ)。

先祖は、上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落したといわれている。のちに父・正済は上総久留里藩に仕官し、目付をつとめている。

白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で生まれた。幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。聡明だが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったという。

利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は2年後の延宝5年(1677年)に土屋家を追われる。その後直樹が改易されると、自由の身となった白石は大老堀田正俊に仕えたが、その正俊が若年寄稲葉正休に殿中で刺し殺されると、堀田家は古河・山形・福島と次々に国替を命じられて藩財政が悪化、白石は堀田家を自ら退いて浪人し、独学で儒学を学び続けた。

致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたという。

江戸城中の御用控の部屋、神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、一旦、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、享保2年(1717年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に渋谷区が設置した記念案内板がある。当時は現在のような都会ではなく、一面に麦畑が広がるような土地だったと伝わる。

晩年は不遇の中でも著作活動に勤しんだ。 『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725年)5月19日死去。享年69(満68歳没)。墓所は中野区の高徳寺にある。


【荻生 徂徠 略伝(Wikipediaより)】
荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日)は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)、通称は総右衛門、徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、又蘐園と号した。本姓は物部氏。父は5代将軍徳川綱吉の侍医荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。

江戸に生まれる。幼くして学問にすぐれ林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、将軍になる直前の綱吉(将軍在任は1680-1709年)の怒りにふれ、父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った。ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。元禄5年(1692年)、27歳の時、父の赦免でともに江戸に戻り、ここでも学問に専念した。芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている。

元禄9年(1696年)、徂徠31歳のとき、5代将軍・綱吉側近で幕府側用人・川越藩主の柳沢吉保に抜擢され、川越藩で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍綱吉の知己も得ている。宝永6年(1709年)、徂徠44歳のとき、綱吉の死去、吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾蘐園塾を開いた。やがて徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ(隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある〉。 享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。追放刑の不可をのべ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728年)に死去、享年63。


【古賀精里 略伝(Wikipediaより)】
古賀 精里(こが せいり、寛延3年10月20日(1750年11月18日) - 文化14年5月3日(1817年6月17日))は、江戸時代後期の儒学者。名は樸、字は淳風、通称は弥助。子に穀堂・侗庵、孫に謹一郎(茶渓)が居る。

佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱子学を、西依成斎に山崎闇斎の学を学ぶ。大坂に塾を開き尾藤二洲や頼春水らと親しく交わる。帰藩して藩主・鍋島治茂に仕え、1781年に藩校・弘道館が設立されると教授となり、学規と学則を定めてその基礎を確立した。

闇斎朱子学の教説にもとづいて学問思想の統制をはかり、徂徠学を斥けた。1796年、47歳の時に抜擢されて昌平黌の儒官となり、柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政の三博士といわれた。門下として羽倉簡堂・草場佩川・斎藤拙堂・野田笛浦・篠崎小竹・野村篁園など多数いる。性格は「厳密寡黙」と頼山陽に評され、精里の詩は学者らしい観念的な詩である。著書『十事解』は1789年に支藩の蓮池藩のために施政治民の要を説いたものである。


【山梨稲川 略伝(コトバンクより)】
山梨稲川 【やまなし・とうせん】、生年: 明和8.8.4 (1771.9.12)、没年: 文政9.7.6 (1826.8.9)。

江戸時代後期の漢学者。駿河庵原郡西方村(静岡県清水市)の人。名は治憲,字は玄度,叔子。東平,稲川などと号す。幼いころから,詩文や書をよくし,17歳のとき江戸に行き,古文辞学派の陰山豊洲に師事。その後東北,関西などの各地に遊び交友を広める。父が亡くなり,25歳ごろからは駿河をほとんど離れることなく,学問に励んだ。特に古書を正しく理解するため,中国古代の音韻を研究。晩年,著作『文緯』を携え諸儒に諮ろうと江戸に出たが,果たす前に没した。また詩文や書の評価も高い。

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