2013年6月20日木曜日

江戸詩人選集〈第5巻〉市河寛斎・大窪詩仏

岩波書店「江戸詩人選集〈第5巻〉市河寛斎・大窪詩仏」



江戸詩人選集 全10巻。品切重版未定。古本での入手となります。

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【市河寛斎 略伝(Wikipediaより)】
市河 寛斎(いちかわ かんさい、寛延2年(1749年) - 文政3年7月10日(1820年8月18日))は、江戸時代の儒学者で漢詩人。

江戸生まれとも上野国(いまの群馬県)出身ともいう。林家に学び、富山藩の藩校教授となった。養父は多胡碑を世に紹介した高橋道斎。

著書に『日本詩紀』がある。これは、日本の奈良時代から平安時代末までの漢詩約3,800首を集めて作者別に編成した詩集で、目録1巻、本集50巻、別巻1巻、外集1巻より構成される。

『全唐詩逸』は、康熙帝の勅撰漢詩集で唐代全部の詩を収録したとされる『全唐詩』から遺漏したものを集めて出版したもので、これは、当時の中国の学者をおおいに驚かせている。

幕末の三筆・市河米庵は長子。画家の鏑木雲潭は次男。

墓は、荒川区西日暮里の本行寺。


【大窪詩仏 略伝(Wikipediaより)】
大窪詩仏(おおくぼしぶつ、明和4年(1767年) -天保8年2月11日(1837年3月17日))は、江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。

常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。

名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の袁枚の号に因むと言われる。

文化3年3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。

市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。 蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。

師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。

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