2013年6月25日火曜日

江戸詩人選集〈第9巻〉広瀬淡窓・広瀬旭荘

「江戸詩人選集〈第9巻〉広瀬淡窓・広瀬旭荘」By 岡村繁。


江戸詩人選集 全10巻。品切重版未定。古本での入手となります。
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【岩波書店 紹介文より】
江戸時代,九州は一大文化圏を形成した.豊後国日田の豪商の家に生れた広瀬淡窓は郷里に私塾咸宜園を開き,幕末維新期に活躍する多くの人材を養成した.弟の旭荘は,交遊を好んで各地を旅した末,大坂に私塾を開いた.淡窓が実景・実事に基づいて平明な詩を作ったのに対し,旭荘は感情の起伏の激しい,才気横溢した詩を多く作った.

広瀬淡窓・広瀬旭荘の略伝


【広瀬淡窓 略伝(Wikipediaより)】
広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号に青渓など。末弟に広瀬旭荘、弟広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の一人広瀬勝貞は現大分県知事。

豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。少年の頃より聡明で、淡窓が10歳の時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていたとされる松下筑陰(まつした ちくいん)に師事し、詩や文学を学んだが、淡窓が13歳のときに筑陰が豊後佐伯毛利氏に仕官したため師を失ったという[1]。16歳の頃に筑前の亀井塾に遊学し亀井南冥・昭陽父子に師事したが、大病を患い19歳の暮れに退塾し帰郷。病は長引き、一時は命も危ぶまれたが肥後国の医師倉重湊によって命を救われる。その後、病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて弟の久兵衛に商売を任せ、一度は医師になることを志すが、倉重湊の言葉によって学者・教育者の道を選ぶ。

文化2年(1805年)には長福寺に初めの塾を開き、これを後の桂林荘・咸宜園へ発展させた。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等以降10代の塾主によって明治30年(1897年)まで存続、運営された。塾生は全国各地から集まり、入門者は延べ4000人を超える日本最大級の私塾となった。

淡窓は嘉永6年(1853年)から 晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら白丸を1つつけ、食べすぎなどの悪いことをしたら1つ黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが1万になるようにするものだった。1度目は67歳に達成し2度目の万善を目指して継続していたが73歳の8月頃に停止されている[1]。淡窓は安政3年(1856年)に死去。享年75。



【広瀬旭荘 略伝(Wikipediaより)】
広瀬 旭荘(ひろせ ぎょくそう、文化4年5月17日(1807年6月22日) - 文久3年8月17日(1863年9月29日))は江戸時代後期の儒学者・漢詩人。

通称謙吉、名は謙、字を吉甫、号は初め秋村、後に旭荘、梅墩(ばいとん)。豊後国日田郡豆田町(大分県日田市)の博多屋広瀬三郎右衛門(桃秋)の八男に生まれた。末弟で、兄に広瀬淡窓、広瀬久兵衛(この子孫の一人が知事の広瀬勝貞)らがいる。子に広瀬林外。

旭荘は記憶力が抜群に良く、師亀井昭陽に「活字典」といわれた。また交遊を好み、各地に多く旅をした。勤王の志士との交わりも知られ、蘭学者も多くその門を訪れている。

詩作にすぐれ、詩文の指導には規範を強いず、個性を尊重した。淡窓が平明な詩を作ったのに対し,旭荘は感情の起伏の激しい、才気横溢した詩を多く残している。旭荘の詩を評して、斉藤松堂は「構想は泉が湧き、潮が打ち上げる様、字句は、球が坂をころげ、馬が駆け降りる様。雲が踊り、風が木の葉を舞上げる様だ」と言い、清代末期の儒者、兪曲園は「東国詩人の冠」と評している。

また著述も多く、とくに27歳のときから、死の5日前まで書き続けた日記『日間瑣事備忘(にっかんさじびぼう)』は、江戸後期を伝える貴重な資料となっている。

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